実践しています。

up and ups just fine

最適解を求め続ける

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2021.01.03 陣馬山に広がる空が青かった。

 

いよいよ大舞台がすぐそこに迫る2021年。僕はこの年のために1年以上をかけて積み上げてきた。走っている瞬間に思う、2019年の自分よりも善くなっていることを。走っている瞬間に思う、たどり着きたい先のイメージが湧いていることを。走っている瞬間に思う、このまま死ぬまで走り抜けたいと。2020年、日々淡々と走り続けた時間の中で、走力を養いながら価値観も醸成された(ちょっと大袈裟かな!?)

無事にスタートラインに立てるかはともかくとして、晴れの舞台が晴天でも悪天でも、たとえ舞台がなくなっても、その日をゴールとせずに2021年を通して走り続けることをまずは自分に誓う。それは競技のためにやっている訳じゃないから。走っている時間がただただ楽しい。走ることを通してより善く有りたい。

 

 

「最適解を求め続ける」

これが僕の2021年の抱負。ランニングにおけるテーマ。

 

ひとつは置きに行かない。たとえ大舞台が控えていようと、時間の限りより善くなる方法を探る。安パイを切らずに、常に試行錯誤する。その末の結果に後悔はしない。それがひとつ。競技のためだけに走っている訳じゃないから、2020年を通して得たこの感覚を2021年も磨くことを選択する。

 

ランニングにおける最適解、言ってしまえば当然人によって異なる。コンペティティブな人を並べても身体性が違えば処方箋も様々。自分は自分を探求することで、最適解を導き出す。例えば、僕の”背骨”にはマフェトン理論がある。この理論を徹底したことで得た言葉にならない感覚は今も生き続けている。マフェトン理論が”背骨”であるなら、心拍数は僕の”骨格”を作っている。心拍を基準にトレーニング管理をすることで健康的な”骨格”を形成することができると信じている。もちろん、身長はまだ伸びるし、肩幅が広がる余地は残っているはずだ。丈夫であることは、明日も走れるという安心感を生む。では”筋肉”はどうやってつくんだろう?じぶんにとって必要な”筋肉”は何なんだろう?最近はそんなことを考えている。そこに、成長の余地があるはずだから。その方法論はインターバルトレーニングかもしれないし、あるいは100km走かもしれない。その答えはトライアンドエラーの先にしかない。そして時間は限られている。であれば、より善くなる方法を探る、それを選ぶ人間になりたい。

 

それでは”最適解”とは何を指すんだろうか。最も適した答えとは、何に適しているんだろうか。おそらく、適する像が見えてきたからこそ、「最適解を求め続ける」ことが今年のテーマなんだろう。究極的には自然の一部になりたいと思っている。以前であれば覚醒した動物のようなイメージだったけど、今はより自然そのものに近い。風で草木が揺れるように、自分も漂っていられたらいいのにと思っている。身体は勝手に動き続ける、意識は自然に溶けていく、そんな感覚に触れたいと思っている。正直、自分でも何を言っているのかわからない節もある。ただ、誰もいない山中で淡々と動いていると、ふとそんなことを考えたりする。それが僕の理想像。この理想を身体能力に置き換えていくことが自分にとっての目的地なのである。もう少し具体的に。例えば100マイルレース。スタートの合図が鳴って動き出す。身体は一定のリズムで進み続ける。だんだんと意識はなくなって、気づいた時にはゴールしている。そんな走りをしてみたい。つまり、前提として動き続ける能力を養う必要がある。登りも下りも、平地でも淡々と動き続けられる身体を、トレーニングによって獲得する。その時に大切なのは方法論ではなく、イメージであると信じている。イメージがある以上、最適解を求め続けることで、いつか近づけるはずだ。理論は方向を示してくれるがゴールではない。レースは現在地を教えてくれるが目的地ではない。

 

2021年は最適解を求め続ける、つまり実践し続けること。