実践しています。

up and ups just fine

接続 - 切断

 

アメリカ - 高尾 - エチオピア

 

ー 僕は旅の早い段階で、動物や人を怖がらないようにしようと決めていた。必ずしも望ましいとは言えない信念だ。それでも、僕はこの決意のおかげでより自由に、好きなように行動できるようになったので良かったと思っている。いったん決心してみると、それがどれだけシンプルなことかに驚いた。ただ決める、それだけだ。 ー

アメリカを巡る旅 3,700マイルを走って見つけた、僕たちのこと。 - Rickey Gates - 〉

 

この一文に導かれるように、この夏は何度も夜の裏山をひとりで走った。と書きながら、そんな詩的な情景じゃないと、あっさりと否定しておく。実際は、こうにも動機づけしなきゃ走り出せない、それが実情だったと思う。

およそ1年近くぶりに、春先から習慣的に走りはじめた。2020年ほどの熱量があったわけじゃなく、むしろもう一度何かに熱中したい、でも熱中しすぎてはいけない、そんな都合のいい塩梅と、まずは走るきっかけを探していたら、幸運にも手を差し伸べてくれる隣人(仲間)がいた。まずは走る習慣を取り戻すところから。それに慣れてくると目標を設定して、自走できるようになってきた。よし、3年ぶりにレースに出てみよう。

なんとなく心配していることは大抵現実になるもので、僕の場合はレース特化期に入ると見事にリズムが不安定化した。そりゃそうだ、土日にまとまって走れる時間がないことは、はじめる前からわかっていた。トレイルランニングの、特にウルトラディスタンスをやっている人なら言わずもがな、長時間走らないことには実践練習にならない。

出来ることなら使いたくない、最後の切り札として用意していた〈夜の裏山〉を、早々に出すことになった。夜中に一人で、ヘッドライトを灯して山の中を走るなんて、控えめにいってもまともじゃないと思う。薄気味悪いし、動物がでてきたら怖い。同じような人種に突然出くわす瞬間はもっと怖い。実際に、夜中に山奥で同じ人種とすれ違った時は気味が悪かった。恐らくお互い様なんだろう。そんな時、リッキー・ゲイツの綴った文章は、おかしな時間に走る動機づけとして役に立った。さて、自分は自由になれたんだろうか。そもそも、そんなものを求めていたんだろうか。



ひとりで走ることに慣れてくると、だんだんとつまらなくなってくる。もう少し正確に表現すると、走っているその瞬間、その連続はたしかに楽しい。日々、自分の身体の動きを点検して、小さな改善点をみつけては修正を繰り返す。それは、動作であったり、トレーニングメニューであったり、生活習慣であったり、走ることにつながるすべてを修練されていく。ひとりでも迷わないような大きな目標を設定して、効率的(だと願って)に進もうとする。

本人はいたって真剣だからその最中には気づかないけど、だんだんと潔癖になって無菌化して、均質的なものを好むようになっていく。それは単に余裕がないからだった。バックキャスティング的な思考を続けていると、現在はすべて未来のためのものになる。

効率!効率!効率!

目的的に逆算をつづけると、合理的であろうものを選択し続ける。それが退屈の正体だ。

そこには、ある種の中毒性がある。バイオリズムを理解して、自分なりに構造化することは美学の一種であるとも言える。ただ、その周期から一度はずれて俯瞰してみると、栓を抜いた浴槽にあらわれる渦みたいなものだった。渦は確かに美しい、でもたかだか風呂桶程度のサイズだ。海のほうが広いし、波状ほうが自由でとらえようがない。きっと、もっとスケールが大きい何かを触りたいと思ったのかもしれない。

 

 

マイケル・クローリーの〈ランニング王国を生きる〉を読んでいて感じること。それは走ることに偶然性を宿すことは可能なのか、という問い。極めてロジカルな世界の中で、偶然性に居場所はあるんだろうか。エチオピアのランナーにとって、理論を超えたものがファルトレクであるなら、自分にとっては何がそれに当たるんだろうか。走ることにおける偶然性とは何なんだろうか。



 

箱根 - 六本木 - 浅草

 

ー 私の社会的な意義は、ほんの数十年前までは未開拓だった土地で形成された。寂寥感、なにもない土地、広々とした空、どこまでも続く地平線、そして、ほんのわずかな人々。これらが私の最初の事実であり、長い間、支配的なものであった ー

〈 無題 - Roni Horn - 〉

 

ガラス彫刻シリーズが印象的だったのは、美術館がもつ佇まいと、年始の平日という閑散とした空間が相まった故の偶然的な要素はたしかにあったはずだ。それでも、見る角度によって個体とも液体ともつかない不思議な印象を与える質感は、言葉にならない余韻を残した。作品の解説をそのまま引用すると「静と動、穏やかさと荒々しさ、表層と深淵、透明感と重量感といった、相反する性質」をたしかに内包していた。

このメッセージに強く惹かれたのは、生まれ育った場所を連想させるからに他ならない。ガラスという抽象的な性質に言葉が結びつくだけで、文脈は勝手に生成されていく。ちょっとズルいな、とも思うし、優しいようにも感じる。現象を捉える写真とは違って、平面的な絵画とも違って、理論的な建築とも違って、より作者の感覚が表現されるオブジェクトは、「お互いがわかりあえたら何よりだ」とでも言うような、潔さや偶然性に委ねているように感じた。



同じ年に、六本木では李禹煥の回顧展が開催された。断っておくと、自分は美術にはまったく知識がなければ語彙も持ち合わせていない。直感的にRoni Hornと李禹煥の作風、表現方法が似ているように感じた。視覚的には、かたやとても西洋的で、かたやとても東洋的でありながら、相反する性質を表現するという意味で受け取る印象にとても近いものがあった。

李禹煥は〈関係項〉という立体作品のシリーズで、ものと場所、ものと空間、ものともの、ものとイメージの関係を表現した。Roni Hornとの違いは補足や物語はなく、より物質的だった。屋外に設置されたオブジェの遥か上空に飛行機がとんでいて、これも一種の〈関係項〉のように感じた。



ベジャール・ガラのプログラムで、ハイライトはきっと〈バクチⅢ〉の上野水香だったはずだ。インドの伝統音楽に合わせて赤い衣装が激しく動く。これがバレエだろうがコンテンポラリーダンスであろうが、彫刻であろうが、ジャンルは不問。美術作品ではないものの、音楽と身体性には確かに〈関係項〉がある。そして言葉はない。

もうひとり印象的だったのは〈火の鳥〉に出演した伝田陽美で、主役ではないのにどうしても見入ってしまう。何人かで同じ動きをしているのに、一人だけ表現しているスケールが違う。これが舞台における個性なんだろうか。もし個性の表現方法が技術を前提にした上で、最後は生まれ持った気質に由来するなら、なかなかに残酷な世界であって、その意味でスポーツ的とも言える。



ここ数年は、レースとは舞台芸術だと捉えている。それは、観客がいるはれのひという意味ではなく、たった一日のために何ヶ月も準備をしてパフォーマンスを高めていくプロセスが同じだから。舞台にあがった瞬間に、発揮できる程度は限られている。その過程で、どれだけ万全を期して自信を高められたのか。演目がはじまれば、意識的に、そして無意識的に、身体を動かし続けるだけだ。記録ではなく、その先にある何かに触れたいと願っている。

レースをピークと捉えるなら、このサイクルは確かに舞台芸術であるけれど、2022年については走ることをもっと日常的にしたかった。実際は、期分けして運動しているのでレースが近づけば高揚感は自ずと高まる。ただ、もうちょっと俯瞰して捉えたときに、レース単位で上がり下がりをつけずに、日々の積み重ねの延長線上に、通過点として舞台がある方が望ましい。

その意味で、舞台的なものは過ぎ去って、今は走ることは彫刻的だと表現した方が馴染む気がする。表現者と観客という関係性は薄れて、より作者本位であるというか、自分の中にあるイメージを具現化していくことに集中する。自分は表現者でありながら、同時に石であり、鉄であり、そしてガラスでもある。自分の身体をマテリアルとして扱って、必要に応じて工具を選ぶ。工具とは、坂道インターバルであり、テンポ走であり、夜中のトレイルである。イメージを物質化するために工具を選ぶ。

イメージとは、ずっと身体が動き続けている状態。凪であったり、森であったり、そこに佇んでいる状態を身体で感じたい。特に感情の波もなく、無意識的に身体が動き続けて、気がついたらゴールしている。そんな体験をイメージして、日々工具を選んでは彫刻する。荒っぽいフォルムから、だんだんと滑らかになっていく。その過程を、自分の喜びのために続けたい。その延長にある偶然性にいつか触れてみたい。




アラスカ - 神田 - オークランド

 

ー 何者かになるには偶然の出来事を肯定し、それに引きうけないといけない。偶然性とはそのときその場にいる自分にしか起きなかった私固有の出来事で、それが個性をつくりあげるから。 ー

角幡唯介

 

 

5月中旬、ふと目にとまった文章に引力を感じた。この時期といえばちょうどランニングを再開して間もない頃。また走ることへの熱が高まり始めた中で、走ることにおける偶然性とは何だろうと考えていた。良き隣人の誘いから重い腰をあげて走り出した。上手く乗れるかはわからないけど、波を感じたから身を委ねてみたわけだ。まさにこれが〈私固有の出来事〉である気がした。隣人からランニングのコーチングを受けることになって、再開と同時に走ることとの新しい関係性がはじまった。

坂道をダッシュして追い込む日があれば、中強度でテンポよく走る日もあり、ジョグから、ゆっくりと長い時間をかけて走る日まで、今まではやってこなかったバリエーションをこなした。メニュー自体は理論やスケジュール、目標から逆算して構成されている。その意味で、とても効率的というわけだ。そう、効率的で合理的な方法をとっている。ただ、方法論は完全にコーチに任せてしまった。もちろん、何もわからないままではなく、ある程度理論は理解している上で、自分では考えないことにした。毎日のメニューに集中する。その瞬間にだせる精一杯の出力を、適切な強度を、走ることそのものに集中する。

毎日の積み重ねの先にどこにたどり着くのか、そのことは意識せずに流れに身を委ねる。

 

 

夏のある晩、珍しいメンバーで食事に行った。テーブルを囲んでとりとめのない話で盛り上がった。何を話していたのか、今となっては覚えていないけど、質量を感じる会だった。その後も、たまにぼんやりその日のことを思い返す。ミドルエイジクライシス、それについての話は一切なかったけど、なんとなくその日を境にこのワードが目にとまるようになった気がする。

自分自身、その年齢に近づいたことで気配を感じはじめたのかもしれない。まわりにも背後から肩をたたかれはじめている人がいるのかもしれない。角幡唯介は〈狩りと漂流〉のなかで、「43歳になると多くの登山家、冒険家が死ぬので、私はかねてからこれを〈43歳の落とし穴〉と勝手に名づけ、ひそかに注目していた。」と綴っている。経験の拡大に肉体が追いつかなくなる年齢で、頭のなかではできると思うことと、身体的なキャパシティが不釣り合いになる分岐点と言い表していた。

これほど過酷な世界は生きていないけど、精神と身体の非対称性が生まれてきたことは認めよう。まず、興味関心の領域が減ったし、経験の積み上げから想像を広げるようになった。隅々まで目が届くようになったと言える反面、死角が増えたこともまた事実。

理由のひとつはわかっている。時間がない、ということを強く意識するようになった。走る時間すらろくにないのに、走り続けるためには相当のエネルギーを注ぐ必要がある。走って終わりじゃない、準備と回復がセットで、これを回し続けなければいけない。その他に充てられる時間なんて限られている。〈選択と集中〉好きなスタイルではあるものの、選択しなかったものたちから孤立していく実感を持ち始めた。それでも、選択することを自分は選ぶ。



関心と言えば、他者への興味もだいぶ薄れたように感じる。ジェニー・オデルは〈何もしない〉のなかでアテンション・エコノミーから距離を置くことを提唱する。「私がソーシャルメディアで出会う情報は、空間的にも時間的にもコンテクストに欠けている」と表現している。「コンテクストはできごとのあいだの秩序を整える。コンテクストは空間と時間の周辺にある。フィード上には重要なことがずらっと並んでいるように思えるが、全体として見ると支離滅裂で、そこから生まれるのは理解ではなく、無味乾燥で知覚が麻痺するような恐怖だ。」

SNSネイティブはこのムーブメントが終焉しても、次のナラティブを見つけて適応するだろう。でも後天的に触れた僕ら世代は、SNSの崩壊とともに時代の終焉と孤立化が待っている気がする。新しいサービスが生まれても、きっと興味がわかない気がしている。SNSを使いながらも、矛盾するようにその日が来ることを密かに待っている。ジェニー・オデルがバード・ウォッチング(バード・ノーティスィング)を好むなら、自分は静かに山を走って自然と同化できるようになりたい。

ネットワークを切断して孤独になる。それでもどこかでみえない糸によって繋がれている。

接続 - 切断 - 接続 - 切断



bounce for koumi

 

Spotifyによれば2022年のトップソングはFrank Oceanの〈Pink + White〉とのことで、トップ5のうち2曲がアルバム〈blond〉から。残りの3曲はThe Vernon Springのアルバム〈A Plane Over Woods〉からだった。たしかに、この夏は林道を走りながらずっと聴いていた。

2021年の夏にも〈Pink + White〉を聴いていた。「どうせ明日も走れないし」、そんな気持ちで夕方からジンの水割りを飲みながら、ダウンモードで聴いていた。1年後、ボトムだった頃を思い出しながら、今度は同じ曲をバウンスさせながら聴いていた。

偶然出会ったMatt Quentinの〈Morning Dew〉もよく聴いた。Yellow gateにタッチした帰り道、呼吸を整えながらよく聴いた。そういえばYellow gateはリスタートのきっかけであったし、Stravaによれば自分がローカルレジェンドとのことだ。Yellow gateが見えてくる最後のストレート、緩やかな勾配を全力で走りきった。「お前の中のZack Millerは闘ってるか?」と何度も自問した。その瞬間に、全力を注ぐ。いま、ここに集中する。

ニューイヤーバレイの〈Penguin Cafe Orchestra〉も、真夜中の〈Thundercat〉も、何年もずっと聴いてる〈TNT〉も、去年の1位の〈EARFQUAKE〉も、どっちが良曲か聴き比べた〈Mother’s Love〉も、怪しげな〈Redbone〉も、映像がシンクロする〈Broadway Melody Ballet〉も、忘れられない〈忘れられないの〉も、四六時中聴いている〈Suffolk〉も、〈My Top Songs 2022〉は全部記憶と結びついている。



bounce for koumi〉 35kmの周回コースを5回走るなんて退屈しそうだから、10時間を超えるプレイリストを作っておいた。2〜3周目はこれを聴きながらゆっくり走るつもりでいた。〈D’ Angelo〉も〈James Blake〉も〈Maggie Rogers〉も〈Tsegue-Maryam Guebrou〉も、もちろん〈Frank Ocean〉も〈The Vernon Spring〉も、〈Jeff Parker〉も、日常の音楽をアルバム単位で詰め込んだ。

偶然といえば、Koumi100にでるつもりなんてなかった。理由をつけるなら偶然でることになった、ということだ。3年ぶりのレースは楽しみと不安が適度に入り交じる良い状態だった。夜中の裏山でひとり聴いた音楽を思い出す。高強度のトレーニングは鉈を振るうように身体を造形し、エンデュランスランはヤスリのように滑らかなフォルムを成形してくれた。山と路上の〈関係項〉は、目には見えない身体に宿った。こんなに動いているのに〈何もしない〉ように感じるのは走っているその瞬間は切断されているからなんだろう。山から降りれば接続されて、山に行けばまた切断される。



4周目を終えると大勢の仲間が迎えてくれた。雨が強くなってきたので、さっきまで陣取っていた外の簡易エイドは撤収して、屋内に移動している最中だった。連れられるように屋内に入って、ストーブの前に用意されていた椅子に座った。身体は冷えていなかったけど、なんとなく暖まった気がした。自分も、まわりも興奮している。そりゃそうだ、走る前には予想もしなかった展開だった。ラスト1周を残して3位争いをしているんだから。

「ところで、2位の選手ってどれくらい先にいますか?」と隣人(コーチ)に尋ねると、どう答えようか考えている表情と、いつもより小さい声で、「隣にいるよ。」と聞かされた。ゆっくりと首を動かして一瞥して、足元に視線を戻す。

走ることにおける偶然性とは、たぶんこういうことなんだろう。記録でも、順位でも、レース展開でもなく、想像もつかないような〈いま、この瞬間〉がほんのたまに訪れる。願って出会えるものではないからやっかいだ。ただ、少なくとも続けていないとチャンスはない。その瞬間に触れるためにはそれなりの強度も必要だ。

こんなものに出会わなければ、もっとコンビニエンスな愉しみでも満足できたかもしれない。いいや、悲しくも生まれ持った性なのか、逃れられない運命なのかもしれない。一度飛び越えてしまったハードルは、きまってエスカレートしていく。飛べるか、ひっかけるかはわからない。唯一わかること、それは飛ぶための準備はできたのか、この問いへの答えに嘘はつけない。

 

 

きっと偶然はまたやってくる。偶然は方法論ではない。偶然は効率性でもない。偶然は造形的に、偶然は切断の先に、接続のさらに先に、いつかまたやってくる。イメージはできている。身体だけが動き続けて、自然に同化していく。その延長線上にゴールがあり、さらにその先に偶然はやってくる。今日も、明日も、明後日も、その偶然に出会うための、わずかな、とてもわずかな積み重ねなんだろう。



この post は2022 Advent Calendar 2022 第23日目の記事として書かれました。

昨日の記事はdannna_oサンの〈ベスト in 2022〉でした。

明日は煩先生サンです。お楽しみに。