実践しています。

up and ups just fine

荒地にむかう

 

100km, 6000m, 14時間

2023年の夏、例年以上に暑い日が続いた。朝の6時を過ぎると気温も湿度も、強烈な直射日光も望まない余計な負荷を身体に与えた。疲労の繰り返しでただでさえ辛いっていうのに余計なことはしないで欲しかった。それでも、カチカチに凍結する真冬の寒さと比べたら、早朝から明るく走りやすい真夏の方が気持ちは楽だった。

どうせ人の少ない時間帯だし、上半身裸で走ることが真夏の習慣になった。3インチのショーツ1枚で走っているとわずかに触れる風が気持ちよかった。無駄がないを通り越して、足りてない上半身を見下ろしながら走る。リズムよく自分の足が大腿四頭筋から膝、そしてシューズの順に視界に入る。左右、左右と繰り返される。

飽きもせず、同じルートを毎日走る。1つは通称Yellow gate、緩やかな上り基調の道を街外れの登山道に向かって進む。黄色と緑に塗られた車止めのゲートにタッチしたら、同じ道を今度は下り基調で戻る。もう1つは家から走って5分の里山。登って降りてをひたすら繰り返すシャトルランのトレイルコース。走る速度さえ抑えればどちらも大してキツいわけじゃない。ただ、毎日のこととなると、それも数ヶ月続けていると余力がなくなってくる。

8月、レースに向けた最後の仕上げは「100km, 6000m, 14時間」をクリアすること。それを4週間続けること。1週間で100km走ること、それは難しくない。1週間で14時間運動すること、難しいけど4週間限定ならなんとかしよう。そして6000m上昇すること、これが加わるだけで負荷を劇的に上げていく。近所の初沢山をひたすら登って降りてを繰り返す。上下運動の繰り返しで重力障害になるほどに。

早朝5時に疲労が蓄積して、日中は身体が軋むように鈍く痛む。寝ても疲れが抜けるわけじゃなく、起きた瞬間に一番疲労を感じる。そんな日々を繰り返す。これは続かないかもしれない、と一片も思わないのが不思議で、やると決めたら動き続けるだけという、オートマチックなモードになれば身体と心の分業が数字と疲労を積み上げていく。

動いているあいだ身体は刺激を受けて発展する。明らかに引き締まっていく脚は頼もしい表情をしている。ひとつの独立した人格でも存在するかのように振る舞い始める。例えば、一定のペースであれば平地でも傾斜でも、いつまでも無限に上体を運んでいくような余裕を感じる。動いている瞬間はこれまで溜め込んだ疲労をいっさい忘れて、永遠に動き続けられるような錯覚をする。イメージはできている。レース当日、スタートの合図が鳴ったら走り出して、安らぎと静寂のなかでゴールまで身体だけが動き続ける。気づいたらゴールしている、それを理想に日々のトレーニングを構築している。

身体が動いているあいだ心は心で発展している。走っているあいだは大抵、本番のことを想像したり、その瞬間のペースや調子について観察している。何が上手くいって、どこが課題なのかを整理してセルフコーチングのような、会話を永遠と頭の中で繰り返す。音楽を聞けば同じ曲を繰り返す。その曲に惹かれる理由を探しながら、自分の中の普遍性に結びつける。たまに昔の記憶が蘇る。

9月10日、総仕上げのトレーニングを無事に終えた。夜中から朝にかけて一人で裏山を徘徊する。適切と想定するペースの確認から、補給の頻度、ウェア・ギアからフィーリングまで、すべてに本番を想定してトラブルの種がないかひとつひとつをチェックしていく。すべての点検を終えた時点で、レースの完走を確信する。これまでで最も過酷なトレーニングをやりきった自信と充足感を得て、あとは本番まで身体を回復させるだけになった。

思い出話は青くて臭い、けど放つ

2005年2月、〈Esquire 日本版〉の「旅する写真家」特集の表紙は、たしかRyan McGinleyが撮った作品だった。トラックの荷台に乗った女性の髪の毛が、その速度を現すかのようになびいていて、圧倒的に自由なものを感じた。ちょうど一人旅に没頭していた時期で、「写真家」を気取ってカメラをぶら下げて彷徨っていた。今となっては青臭くて恥ずかしい記憶だけど、どう受け止められようと気にしない程度には、この20年弱で耐性がついてきた。

はじめてWolfgang Tillmansを知ったときも衝撃をうけた。〈View from Above〉と同じような写真を撮りたくて街を徘徊した。たいがい、上手く撮れたと思うようなものはヨーロッパの路上のようなすでに完成された景色を切り取った時だけで、少しの高揚感とそれ以上の虚しい感情が多くを占めた。

「旅」って言葉も青臭くて今では意識して避けているけど、それをしたかった源流は王道の沢木耕太郎だった。当時出入りしていた雑貨屋の店主から勧められて読んだ〈深夜特急〉で決定的に衝動が加速して、初めての一人旅でトルコに行った。初めての海外で、ひとり、そして無謀にも滞在期間は30日。英語は話せないし、ツテなんてなかった。

当時、一番安い航空券はアエロフロート・ロシア航空で、トランジットはモスクワのシェレメチェボ国際空港だった。薄暗いロビーで軟禁されているような気分のなか、イスタンブール行きの飛行機を半日待った。全く同じルートで日本から本国に帰省するトルコ人、それと数人の日本人学生と知り合って、イスタンブールについてからは中心部行きの電車に一緒に乗った。地下を走る電車がトンネルを抜けて地上に乗り上げた瞬間に広がった街の景色は今でもはっきり覚えている。きっとあればボスポラス海峡とその向こうに続く異国の景色が初めての海外体験だった。

「旅」をしていると毎日が一期一会で、同じような人間に「偶然」会っては別れてを繰り返した。その日何をするか、明日どの街に移動するかも自由で当時はそれが心地よかった。高い入場料を払って博物館に行かなくても、散歩をしているだけで新鮮だった。たまたま入る食堂で食べるものはどれも抜群に美味しかったけど、特にトマト煮込みをかけて食べるピラフは最高だった。

毎日が文字通り非日常だし、写真を撮ればどの瞬間も絵になるし、無条件に「偶然」を感じることができた。そんなことに惹かれて同じようなスタイルの「旅」を何回かしているうちに社会人になった。もちろん休みがないから長期旅行なんてできないので自然と「旅」には行かなくなった。でも一番の理由は上澄みだけを味見して消費しているような感覚が嫌になったんだと思う。

 

信濃、身体流々

2023年6月、長野県の木島平で開催されている〈奥信濃100〉を走った。当初は2023年のメインレース、1本勝負のつもりで考えていたのに、春先までろくに走ることができず練習レースとしてでることにした。練習レースという概念自体もう10年近く封をしていたから、そんな心持ちで100kmも走れるのか心配だった。おまけに練習を再開したばかりで、フィジカル的にはまったく期待できない。

振り返ると今年は奥信濃にはじまって、野沢温泉から湘南国際マラソン、そして年末の武田の杜まで、軽い気持ちで、それも自分にしては珍しいくらい多くの大会にでることができた。変化をつけたいという狙いがあったのはマンネリ化した訳ではなく、どこにたどり着くかわからないものに流されてみたかったから。自分を中心に狙いを定めた先に向かって積み上げていく没入感が一番だとわかりつつ、それだけでは足りなくなってきていることを感じていた。

例えば、最近はめっきり機会が減ったもののレストランに食事に行くときも同じようなことを思う。期待を裏切らないジャンル、お店、メニューがあるのはわかりつつ、その範疇にとどまってしまうことを避けるような感覚。そういえば、あまり好きじゃないと思い込んでいたインド料理というジャンルに連れて行ってもらった時に新しい世界に触れたような時のように。

原因は単純で時間がないから。やりたいことが明確だと、どうやって時間を確保しようか必死に頭を使う。結果、「選択と集中」に流れ着くのは自然なものの、何年も続けていくと集中の精度は高まっていくと同時に何かが細っていく感覚がしてきた。せめて集中している分野の中では再度選択肢を広げることがしたくて、たくさんレースに出るという最近やっていなかったことに手を出してみた。

信濃はギリギリの時間に前日受付を済ませて、ご飯を食べてからそのままスタート地点の目の前にある駐車場で車中泊をした。背面のシートを倒せばアウトバックは寝るには十分で、レース前日のケアなり睡眠の質なんて無視して車内でゴロゴロしているのが一人旅のようで新鮮だった。

朝になってスタート地点前に集まると知った顔がちらほら見える。トレーニングが全くできていないので気負いはいっさいなく、完走はできるだろうからどこまで脚が持つか確認をするつもりでスタートラインについた。序盤はゆっくりと走っていると、想像よりはやくハイライトになる高社山をむかえた。山頂にたどり着くと眼下が一面雲に覆われていた。

高社山を過ぎると、これも奥信濃らしさのある沢沿いを登り続ける。いくつか渡渉ポイントを超えて40kmを過ぎたあたりで気がつくと順位が6位まであがっていた。ペースを上げた訳ではないけど、不安定な地形を登り続けたことと、長距離を走る練習をしていなかったこともあり、疲労度としては70%をこえていた。

その後はひたすら我慢をする。歩きたいけど我慢して走る。ペースを落としたいけど我慢して維持する。休みたいけど我慢して動く。60kmを過ぎた頃にはクタクタだったけど10km続く林道の下りを我慢しながら走っていると、辛いながらも少しずつ回復していく感覚があった。あとは意地。不幸にも比較的早い段階で、入賞圏内に入ってしまったので、行けるところまでは我慢するつもりで動きつづけた。

結局、ゴール手前で1人抜いて最終的に総合5位でゴールした。そもそも身体ができていないなかで、そして100kmという自分にとっては難しい距離の中で思いがけない出来事だった。正直に言うと、震えるような喜びだった。我慢し続けて得た結果だったことと、埃を被った「練習レース」をしっかりと走り遂げることができたこと。何より、思ってもみない感情に触れることができたから。自分の頑張りに対してというよりは、身体と心を切り離したことによって、心が身体を祝福するような瞬間だった。

ゴールしてすぐに、コーチに電話した。

 

幡ヶ谷、阿佐ヶ谷、真夜中、ダークネス

2011年、今じゃ考えられないくらい小さなステージでアコースティックソロライブをしていた星野源。会場が弁天湯という吉祥寺の風呂屋だったので、天然のリバーブで聴いた〈ばらばら〉は自分の中では数少ない「間に合った」エピソードかもしれない。決してハイな側じゃないし、むしろロウなライブでも会場には確かな一体感があった。ファーストアルバム〈ばかのうた〉そのものが、手の届くような四畳半的な世界観だったこともあるはずだ。

映画〈69〉で「指紋の無か中村」役をやっていた俳優が、SAKEROCKのフロントマンだと知ったのは随分先のこと。SAKEROCKをメインにしながらソロ活動をはじめた経緯を、歌いたかったと言っていた覚えがある。下北沢の地下にある小さなステージの上に立つ彼と、バンドの音楽、ソロデビューアルバムの世界観がすべてひとつの円のなかにあるような印象を受けた。

自分としてはずっと〈ばらばら〉が持つ引力が強すぎて、その方向を求め続けているようなところがあった。それは古参のファン特有の占有間ではなく、内面の代弁でもなく、純粋に言葉が好きだった。ちょうど〈LIGHTHOUSE〉で、「あの(音楽的な)方向で、あれ以上の曲は無い」と語っていて、ずいぶん長く喉にひっかかっていたものが流れ落ちた。

独自のヒップホップ的表現として製作された〈湯気〉から、いつのまにかストレートな〈さらしもの〉に変化したり、マイケル・ジャクソンへのリスペクトが溢れる〈SUN〉から、言葉も音も多様な〈アイデア〉は完全な独自の世界になっているように感じた。

これまでリリースされた曲の変化を時系列に捉えながら、〈so sad so happy〉を補助線的に聞くとさらに奥行きが出てくる。おそらく昔から好きだっただろう世界観から、現在の星野源をインスパイアする楽曲まで、プレイリストタイトルそのままに「喜」と「哀」がつまっている。ユーミンの〈シンデレラ・エクスプレス〉からサンダーキャットの〈Blackkk〉に曲がつながるなんて、一体どんな感性がそうさせるんだろうか。

振り返るまでもなく自分の20代半ばから現在に至るまで大きな影響を受けたのは、どことなく親戚のお兄ちゃんの背中を眺めているような部分があったりすることと、好きなことに対する純粋さからだろうか。当時、いろんなバンドのライブに出入りしながら、ライブが終わるとたいてい激しい興奮とどこか虚しさがあった。星野源の音楽には小さくて、じんわりと温かいものが身体の中に残っている感じがした。

 

肉と血と、身体と言葉

2023年9月23日、午前4時。小雨のなか〈上州武尊スカイビュートレイル128km〉がはじまった。少しだけ考えたものの、迷ったら安全な方を選べというウルトラの鉄則から濡れ対策でシェイクドライを羽織っておいた。こういう選択のひとつひとつが自分らしさの断片であり、断片の集合体が「完走」を約束させていく。完走のために「安全」に行こうではなく、「当たり前」をやり切る。

山を走る誰しもが一度は体験する「野生」の開放から、今の自分の基礎ができたのは2019年頃だった。子どもが週末の習い事をはじめることが決まって、山に走りに行くという「可能性」は自分の中で完全に消滅した。もともとあって無いような可能性だったが、少なくとも毎週土曜日は習い事の送迎が固定になるので、たまには遊びたいという願望は完全に消し去ることにした。

可能性を「可能性」のまま残さないということは当時の自分にとってはそれなりの決心だったし、「前向きに諦める」という考え方のターニングポイントだった。習い事の前後にできるようなことからもう一度やり直すことに決めて、まずは走る週間を取り戻すことから着手した。いくつかのテキストを読んで、当時の自分に一番相性の良さそうなトレーニングを取り入れた。週に5回、距離や強度は気にせずに、まずは回数を重ねることを意識した。苦手な早起きを克服して、早朝のランニングが習慣になった。春にはじめたトレーニングは夏をむかえる前には板についていた。

その年に完走したロングレースの直後に、子どもの習い事の発表会があった。バレエ、子どもがはじめるまでは全く関わりがないものとして生きてきて、発表会を観るまでは子どもの引率程度に考えていた。その舞台は大人から子どもがひとつの作品を一緒に作っていた。そこで初めてプロのパフォーマンスを観たときは衝撃だった。

僕らは完走を目指してウルトラディスタンスに挑む。完走が手に届くようになれば、今度はタイムを意識するようになる。だんだんとペースがあがり自己ベストの更新に挑むようになる。バレエに限らず舞台において、振り付けをこなしていくことは当たり前で、その先にある表現力で観衆と対峙する。スポーツとアートという違いはありながら、どちらも高い身体能力を使っていながら価値軸がこうも異なることに驚いた。時間をかけて本番に向けて準備をするというプロセスが似ていることが目的の違いを一層際立たせた。

当たり前のように動き続けられる身体に整えること。とっさのトラブルにも対処できる準備をすること。スタートの合図からゴールラインを越えるまで、自意識すらなく身体が動き続けることを理想として、本番で表現をする「旅」がこのときからはじまった。

準備段階から本番のペースを身体に覚えさせること。最もリスクの低い補給方法を確立すること。何より、本番から逆算したトレーニングによって身体をつくること。あとは当日、準備した通りに動き続けるだけ。無用な負荷をかけなければ意識は溶けて身体だけが動き続けることを信じる。その瞬間がやってくることは経験から知っている。ただ、願わくば最初から最後まで、あるいはできる限り長く続けることは本番でしか確認することができない。

 

*
中間地点のオグナほたかスキー場にたどり着いた時にはまだまだ余裕だった。上手く意識と身体をコントロールできている手応えがあった。疲労は最小限で、補給も問題ない。ドロップバッグから取り出したジェルをザックにつめてすぐにエイドを出発する。ここから更に出力を上げる余裕があった。
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バレエ的に走ることを意識してから、ランニングとの向き合い方が一気に変わった。競うことにも誰かと比較することにも興味がなくなって、自分の心の中に芽生えた美意識を身体で表現することだけになった。人と走ることにもほとんど興味がなくなったし、繋がりは求めなくなった。真空のような状態が一番心地よく、ルーティンを磨くことに集中した。表現と言っても誰かに何かを伝えることを目的にしていない。かたちのない抽象的な美意識を具体的にしていくだけ。

走ることがバレエ的であるなら、文章を書くことはヒップホップに近い感じがする。ハードなトレーニングは肉体を形成する。屈強な肉体を求めて負荷をかける。負荷をかけると肉体に血が巡る。血が溢れると言葉になって身体を飛び出す。誰かに伝えるためではなく、自分のために思考を整理して言葉を整える。肉と血が、身体と言語が接続される。

 

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真っ暗ななかで最後の山塊をこえていく。ここまでくると流石に全身疲労している。とは言え完走はほぼ手の中にあり、それなりの結果も現実的になってきた。まだプッシュする余裕もある。実際にしっかりと走ってみる。確かに身体は動く。ゴールはもうすぐだけどまだまだ動く自信がある。これが求めていたパフォーマンスなのか考えながら最後の下りを走る。

山から抜けると街灯がまばらに続く。何度か道路を直角に曲がると急に目の前が明るくなる。最後のストレートで全力を出す。自分でも感心するくらいしっかりとしたストライドで、ゴールに近づいていく。そのまま止まらず、余韻に浸ることもなく、全速力のままゴールテープを切った。
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自慢できるほどの結果じゃないものの、自分の中では関心するほどレース全体をコントロールすることができた。まさに準備の賜物であり、これまでのイメージにようやく到達した手応えを得ることができた。スタートからゴールまでとは行かないものの、集中を続けて128kmを走り切ることができた。

ただひとつ、予想外に味気なかった。

ここ数年、心の内にある理想を求めて積み重ねてきた。今年の夏は今までで最も過酷な準備を乗り越えた。そもそも何がしたいのかよくわからなかった20代前半からはじまって、走ることで自分なりの表現方法を得ることができた。続けることで美意識が構築された。楽器は弾けないし歌は歌えないけど、生身と言葉で表現をする度胸がついてきた。

ようやくたどり着いたゴールは思っていたものと違っていた。ゴールしてみて何か物足りなかった。何が足りないかはすぐに気づいた。足りなかったものに触れるために次の荒地にむかうことにする。

ゴール直後に感じた味気なくて物足りなかった感情は、じわじわと新しい発見に変化していく。振り返れば20年分くらいの景色が地続きで、そしてその日は振り返るには絶好の日だった。自分のことがわからないという得体の知れない恐怖に追われる訳ではなく、行き先がわからないわけでもない。




この post は 2022 Advent Calendar 2023 第22日目の記事として書かれました。

昨日の記事はmactkgサンの〈ベスト・オブ・2023 - 半空洞男女関係〉でした。

明日はまとさんです。お楽しみに。

接続 - 切断

 

アメリカ - 高尾 - エチオピア

 

ー 僕は旅の早い段階で、動物や人を怖がらないようにしようと決めていた。必ずしも望ましいとは言えない信念だ。それでも、僕はこの決意のおかげでより自由に、好きなように行動できるようになったので良かったと思っている。いったん決心してみると、それがどれだけシンプルなことかに驚いた。ただ決める、それだけだ。 ー

アメリカを巡る旅 3,700マイルを走って見つけた、僕たちのこと。 - Rickey Gates - 〉

 

この一文に導かれるように、この夏は何度も夜の裏山をひとりで走った。と書きながら、そんな詩的な情景じゃないと、あっさりと否定しておく。実際は、こうにも動機づけしなきゃ走り出せない、それが実情だったと思う。

およそ1年近くぶりに、春先から習慣的に走りはじめた。2020年ほどの熱量があったわけじゃなく、むしろもう一度何かに熱中したい、でも熱中しすぎてはいけない、そんな都合のいい塩梅と、まずは走るきっかけを探していたら、幸運にも手を差し伸べてくれる隣人(仲間)がいた。まずは走る習慣を取り戻すところから。それに慣れてくると目標を設定して、自走できるようになってきた。よし、3年ぶりにレースに出てみよう。

なんとなく心配していることは大抵現実になるもので、僕の場合はレース特化期に入ると見事にリズムが不安定化した。そりゃそうだ、土日にまとまって走れる時間がないことは、はじめる前からわかっていた。トレイルランニングの、特にウルトラディスタンスをやっている人なら言わずもがな、長時間走らないことには実践練習にならない。

出来ることなら使いたくない、最後の切り札として用意していた〈夜の裏山〉を、早々に出すことになった。夜中に一人で、ヘッドライトを灯して山の中を走るなんて、控えめにいってもまともじゃないと思う。薄気味悪いし、動物がでてきたら怖い。同じような人種に突然出くわす瞬間はもっと怖い。実際に、夜中に山奥で同じ人種とすれ違った時は気味が悪かった。恐らくお互い様なんだろう。そんな時、リッキー・ゲイツの綴った文章は、おかしな時間に走る動機づけとして役に立った。さて、自分は自由になれたんだろうか。そもそも、そんなものを求めていたんだろうか。



ひとりで走ることに慣れてくると、だんだんとつまらなくなってくる。もう少し正確に表現すると、走っているその瞬間、その連続はたしかに楽しい。日々、自分の身体の動きを点検して、小さな改善点をみつけては修正を繰り返す。それは、動作であったり、トレーニングメニューであったり、生活習慣であったり、走ることにつながるすべてを修練されていく。ひとりでも迷わないような大きな目標を設定して、効率的(だと願って)に進もうとする。

本人はいたって真剣だからその最中には気づかないけど、だんだんと潔癖になって無菌化して、均質的なものを好むようになっていく。それは単に余裕がないからだった。バックキャスティング的な思考を続けていると、現在はすべて未来のためのものになる。

効率!効率!効率!

目的的に逆算をつづけると、合理的であろうものを選択し続ける。それが退屈の正体だ。

そこには、ある種の中毒性がある。バイオリズムを理解して、自分なりに構造化することは美学の一種であるとも言える。ただ、その周期から一度はずれて俯瞰してみると、栓を抜いた浴槽にあらわれる渦みたいなものだった。渦は確かに美しい、でもたかだか風呂桶程度のサイズだ。海のほうが広いし、波状ほうが自由でとらえようがない。きっと、もっとスケールが大きい何かを触りたいと思ったのかもしれない。

 

 

マイケル・クローリーの〈ランニング王国を生きる〉を読んでいて感じること。それは走ることに偶然性を宿すことは可能なのか、という問い。極めてロジカルな世界の中で、偶然性に居場所はあるんだろうか。エチオピアのランナーにとって、理論を超えたものがファルトレクであるなら、自分にとっては何がそれに当たるんだろうか。走ることにおける偶然性とは何なんだろうか。



 

箱根 - 六本木 - 浅草

 

ー 私の社会的な意義は、ほんの数十年前までは未開拓だった土地で形成された。寂寥感、なにもない土地、広々とした空、どこまでも続く地平線、そして、ほんのわずかな人々。これらが私の最初の事実であり、長い間、支配的なものであった ー

〈 無題 - Roni Horn - 〉

 

ガラス彫刻シリーズが印象的だったのは、美術館がもつ佇まいと、年始の平日という閑散とした空間が相まった故の偶然的な要素はたしかにあったはずだ。それでも、見る角度によって個体とも液体ともつかない不思議な印象を与える質感は、言葉にならない余韻を残した。作品の解説をそのまま引用すると「静と動、穏やかさと荒々しさ、表層と深淵、透明感と重量感といった、相反する性質」をたしかに内包していた。

このメッセージに強く惹かれたのは、生まれ育った場所を連想させるからに他ならない。ガラスという抽象的な性質に言葉が結びつくだけで、文脈は勝手に生成されていく。ちょっとズルいな、とも思うし、優しいようにも感じる。現象を捉える写真とは違って、平面的な絵画とも違って、理論的な建築とも違って、より作者の感覚が表現されるオブジェクトは、「お互いがわかりあえたら何よりだ」とでも言うような、潔さや偶然性に委ねているように感じた。



同じ年に、六本木では李禹煥の回顧展が開催された。断っておくと、自分は美術にはまったく知識がなければ語彙も持ち合わせていない。直感的にRoni Hornと李禹煥の作風、表現方法が似ているように感じた。視覚的には、かたやとても西洋的で、かたやとても東洋的でありながら、相反する性質を表現するという意味で受け取る印象にとても近いものがあった。

李禹煥は〈関係項〉という立体作品のシリーズで、ものと場所、ものと空間、ものともの、ものとイメージの関係を表現した。Roni Hornとの違いは補足や物語はなく、より物質的だった。屋外に設置されたオブジェの遥か上空に飛行機がとんでいて、これも一種の〈関係項〉のように感じた。



ベジャール・ガラのプログラムで、ハイライトはきっと〈バクチⅢ〉の上野水香だったはずだ。インドの伝統音楽に合わせて赤い衣装が激しく動く。これがバレエだろうがコンテンポラリーダンスであろうが、彫刻であろうが、ジャンルは不問。美術作品ではないものの、音楽と身体性には確かに〈関係項〉がある。そして言葉はない。

もうひとり印象的だったのは〈火の鳥〉に出演した伝田陽美で、主役ではないのにどうしても見入ってしまう。何人かで同じ動きをしているのに、一人だけ表現しているスケールが違う。これが舞台における個性なんだろうか。もし個性の表現方法が技術を前提にした上で、最後は生まれ持った気質に由来するなら、なかなかに残酷な世界であって、その意味でスポーツ的とも言える。



ここ数年は、レースとは舞台芸術だと捉えている。それは、観客がいるはれのひという意味ではなく、たった一日のために何ヶ月も準備をしてパフォーマンスを高めていくプロセスが同じだから。舞台にあがった瞬間に、発揮できる程度は限られている。その過程で、どれだけ万全を期して自信を高められたのか。演目がはじまれば、意識的に、そして無意識的に、身体を動かし続けるだけだ。記録ではなく、その先にある何かに触れたいと願っている。

レースをピークと捉えるなら、このサイクルは確かに舞台芸術であるけれど、2022年については走ることをもっと日常的にしたかった。実際は、期分けして運動しているのでレースが近づけば高揚感は自ずと高まる。ただ、もうちょっと俯瞰して捉えたときに、レース単位で上がり下がりをつけずに、日々の積み重ねの延長線上に、通過点として舞台がある方が望ましい。

その意味で、舞台的なものは過ぎ去って、今は走ることは彫刻的だと表現した方が馴染む気がする。表現者と観客という関係性は薄れて、より作者本位であるというか、自分の中にあるイメージを具現化していくことに集中する。自分は表現者でありながら、同時に石であり、鉄であり、そしてガラスでもある。自分の身体をマテリアルとして扱って、必要に応じて工具を選ぶ。工具とは、坂道インターバルであり、テンポ走であり、夜中のトレイルである。イメージを物質化するために工具を選ぶ。

イメージとは、ずっと身体が動き続けている状態。凪であったり、森であったり、そこに佇んでいる状態を身体で感じたい。特に感情の波もなく、無意識的に身体が動き続けて、気がついたらゴールしている。そんな体験をイメージして、日々工具を選んでは彫刻する。荒っぽいフォルムから、だんだんと滑らかになっていく。その過程を、自分の喜びのために続けたい。その延長にある偶然性にいつか触れてみたい。




アラスカ - 神田 - オークランド

 

ー 何者かになるには偶然の出来事を肯定し、それに引きうけないといけない。偶然性とはそのときその場にいる自分にしか起きなかった私固有の出来事で、それが個性をつくりあげるから。 ー

角幡唯介

 

 

5月中旬、ふと目にとまった文章に引力を感じた。この時期といえばちょうどランニングを再開して間もない頃。また走ることへの熱が高まり始めた中で、走ることにおける偶然性とは何だろうと考えていた。良き隣人の誘いから重い腰をあげて走り出した。上手く乗れるかはわからないけど、波を感じたから身を委ねてみたわけだ。まさにこれが〈私固有の出来事〉である気がした。隣人からランニングのコーチングを受けることになって、再開と同時に走ることとの新しい関係性がはじまった。

坂道をダッシュして追い込む日があれば、中強度でテンポよく走る日もあり、ジョグから、ゆっくりと長い時間をかけて走る日まで、今まではやってこなかったバリエーションをこなした。メニュー自体は理論やスケジュール、目標から逆算して構成されている。その意味で、とても効率的というわけだ。そう、効率的で合理的な方法をとっている。ただ、方法論は完全にコーチに任せてしまった。もちろん、何もわからないままではなく、ある程度理論は理解している上で、自分では考えないことにした。毎日のメニューに集中する。その瞬間にだせる精一杯の出力を、適切な強度を、走ることそのものに集中する。

毎日の積み重ねの先にどこにたどり着くのか、そのことは意識せずに流れに身を委ねる。

 

 

夏のある晩、珍しいメンバーで食事に行った。テーブルを囲んでとりとめのない話で盛り上がった。何を話していたのか、今となっては覚えていないけど、質量を感じる会だった。その後も、たまにぼんやりその日のことを思い返す。ミドルエイジクライシス、それについての話は一切なかったけど、なんとなくその日を境にこのワードが目にとまるようになった気がする。

自分自身、その年齢に近づいたことで気配を感じはじめたのかもしれない。まわりにも背後から肩をたたかれはじめている人がいるのかもしれない。角幡唯介は〈狩りと漂流〉のなかで、「43歳になると多くの登山家、冒険家が死ぬので、私はかねてからこれを〈43歳の落とし穴〉と勝手に名づけ、ひそかに注目していた。」と綴っている。経験の拡大に肉体が追いつかなくなる年齢で、頭のなかではできると思うことと、身体的なキャパシティが不釣り合いになる分岐点と言い表していた。

これほど過酷な世界は生きていないけど、精神と身体の非対称性が生まれてきたことは認めよう。まず、興味関心の領域が減ったし、経験の積み上げから想像を広げるようになった。隅々まで目が届くようになったと言える反面、死角が増えたこともまた事実。

理由のひとつはわかっている。時間がない、ということを強く意識するようになった。走る時間すらろくにないのに、走り続けるためには相当のエネルギーを注ぐ必要がある。走って終わりじゃない、準備と回復がセットで、これを回し続けなければいけない。その他に充てられる時間なんて限られている。〈選択と集中〉好きなスタイルではあるものの、選択しなかったものたちから孤立していく実感を持ち始めた。それでも、選択することを自分は選ぶ。



関心と言えば、他者への興味もだいぶ薄れたように感じる。ジェニー・オデルは〈何もしない〉のなかでアテンション・エコノミーから距離を置くことを提唱する。「私がソーシャルメディアで出会う情報は、空間的にも時間的にもコンテクストに欠けている」と表現している。「コンテクストはできごとのあいだの秩序を整える。コンテクストは空間と時間の周辺にある。フィード上には重要なことがずらっと並んでいるように思えるが、全体として見ると支離滅裂で、そこから生まれるのは理解ではなく、無味乾燥で知覚が麻痺するような恐怖だ。」

SNSネイティブはこのムーブメントが終焉しても、次のナラティブを見つけて適応するだろう。でも後天的に触れた僕ら世代は、SNSの崩壊とともに時代の終焉と孤立化が待っている気がする。新しいサービスが生まれても、きっと興味がわかない気がしている。SNSを使いながらも、矛盾するようにその日が来ることを密かに待っている。ジェニー・オデルがバード・ウォッチング(バード・ノーティスィング)を好むなら、自分は静かに山を走って自然と同化できるようになりたい。

ネットワークを切断して孤独になる。それでもどこかでみえない糸によって繋がれている。

接続 - 切断 - 接続 - 切断



bounce for koumi

 

Spotifyによれば2022年のトップソングはFrank Oceanの〈Pink + White〉とのことで、トップ5のうち2曲がアルバム〈blond〉から。残りの3曲はThe Vernon Springのアルバム〈A Plane Over Woods〉からだった。たしかに、この夏は林道を走りながらずっと聴いていた。

2021年の夏にも〈Pink + White〉を聴いていた。「どうせ明日も走れないし」、そんな気持ちで夕方からジンの水割りを飲みながら、ダウンモードで聴いていた。1年後、ボトムだった頃を思い出しながら、今度は同じ曲をバウンスさせながら聴いていた。

偶然出会ったMatt Quentinの〈Morning Dew〉もよく聴いた。Yellow gateにタッチした帰り道、呼吸を整えながらよく聴いた。そういえばYellow gateはリスタートのきっかけであったし、Stravaによれば自分がローカルレジェンドとのことだ。Yellow gateが見えてくる最後のストレート、緩やかな勾配を全力で走りきった。「お前の中のZack Millerは闘ってるか?」と何度も自問した。その瞬間に、全力を注ぐ。いま、ここに集中する。

ニューイヤーバレイの〈Penguin Cafe Orchestra〉も、真夜中の〈Thundercat〉も、何年もずっと聴いてる〈TNT〉も、去年の1位の〈EARFQUAKE〉も、どっちが良曲か聴き比べた〈Mother’s Love〉も、怪しげな〈Redbone〉も、映像がシンクロする〈Broadway Melody Ballet〉も、忘れられない〈忘れられないの〉も、四六時中聴いている〈Suffolk〉も、〈My Top Songs 2022〉は全部記憶と結びついている。



bounce for koumi〉 35kmの周回コースを5回走るなんて退屈しそうだから、10時間を超えるプレイリストを作っておいた。2〜3周目はこれを聴きながらゆっくり走るつもりでいた。〈D’ Angelo〉も〈James Blake〉も〈Maggie Rogers〉も〈Tsegue-Maryam Guebrou〉も、もちろん〈Frank Ocean〉も〈The Vernon Spring〉も、〈Jeff Parker〉も、日常の音楽をアルバム単位で詰め込んだ。

偶然といえば、Koumi100にでるつもりなんてなかった。理由をつけるなら偶然でることになった、ということだ。3年ぶりのレースは楽しみと不安が適度に入り交じる良い状態だった。夜中の裏山でひとり聴いた音楽を思い出す。高強度のトレーニングは鉈を振るうように身体を造形し、エンデュランスランはヤスリのように滑らかなフォルムを成形してくれた。山と路上の〈関係項〉は、目には見えない身体に宿った。こんなに動いているのに〈何もしない〉ように感じるのは走っているその瞬間は切断されているからなんだろう。山から降りれば接続されて、山に行けばまた切断される。



4周目を終えると大勢の仲間が迎えてくれた。雨が強くなってきたので、さっきまで陣取っていた外の簡易エイドは撤収して、屋内に移動している最中だった。連れられるように屋内に入って、ストーブの前に用意されていた椅子に座った。身体は冷えていなかったけど、なんとなく暖まった気がした。自分も、まわりも興奮している。そりゃそうだ、走る前には予想もしなかった展開だった。ラスト1周を残して3位争いをしているんだから。

「ところで、2位の選手ってどれくらい先にいますか?」と隣人(コーチ)に尋ねると、どう答えようか考えている表情と、いつもより小さい声で、「隣にいるよ。」と聞かされた。ゆっくりと首を動かして一瞥して、足元に視線を戻す。

走ることにおける偶然性とは、たぶんこういうことなんだろう。記録でも、順位でも、レース展開でもなく、想像もつかないような〈いま、この瞬間〉がほんのたまに訪れる。願って出会えるものではないからやっかいだ。ただ、少なくとも続けていないとチャンスはない。その瞬間に触れるためにはそれなりの強度も必要だ。

こんなものに出会わなければ、もっとコンビニエンスな愉しみでも満足できたかもしれない。いいや、悲しくも生まれ持った性なのか、逃れられない運命なのかもしれない。一度飛び越えてしまったハードルは、きまってエスカレートしていく。飛べるか、ひっかけるかはわからない。唯一わかること、それは飛ぶための準備はできたのか、この問いへの答えに嘘はつけない。

 

 

きっと偶然はまたやってくる。偶然は方法論ではない。偶然は効率性でもない。偶然は造形的に、偶然は切断の先に、接続のさらに先に、いつかまたやってくる。イメージはできている。身体だけが動き続けて、自然に同化していく。その延長線上にゴールがあり、さらにその先に偶然はやってくる。今日も、明日も、明後日も、その偶然に出会うための、わずかな、とてもわずかな積み重ねなんだろう。



この post は2022 Advent Calendar 2022 第23日目の記事として書かれました。

昨日の記事はdannna_oサンの〈ベスト in 2022〉でした。

明日は煩先生サンです。お楽しみに。

漂い

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UTMF2021

2021年4月24日、明け方、天気は悪くない。

想定よりも疲れてるけど、想像以上にスリリング。白い簡易テントの下、仲間と軽く話をしながらボトルに水を足す。一昨年、つまり2019年の同じ頃、同じ場所で観戦していた自分の面影を感じながら、二十曲峠エイドを足早に去って富士吉田を目指す。あの日の自分はPRESSとプリントされた黒いビブをつけて、外野として選手を観察する側だった。今日は自分の日。肉体を酷使して、すべてのエネルギーを放出する日。ここまではウォーミングアップで、ここから 残り30kmの核心部をどれだけ持ち上げていけるか、そのことだけを考えて1年半近くトレーニングしてきた。

自分より少し先にエイドを出た選手を早々に抜いても、一喜一憂せずに淡々と進む。なにせこのパートはとびっきりヘビーで、レース展開的にも気が抜けない。動き続けること、それも最大限の出力で、その一点に集中する。最後のエイド、富士吉田に着いた頃には期待値よりもボロボロで、筋力は消耗しきってるし接地のたびに膝関節が痛む。さいわい心臓は血液を循環させるための力はまだ持っているし、さらに気持ちは燃え上がっている。この先に待つ最後の山となる霜山を超えるとゴールが待っている。

遠い過去のように思うけどまだ数ヶ月前の話か。山に行けなかった時期は平日の早朝から近所のジムで傾斜をつけて2時間近く走っていたな。そのときに考えていたことと言えば、この霜山のシミュレーション。どんなに辛くても霜山は歩かずに走って登り切る。足元だけをみてステップを踏み続ける。トレッドミルの上では霜山を想像して、いまこの瞬間、そう霜山を走っている瞬間は明け方のエニタイムを思い出している不思議。ガラスの向こうはまだ真っ暗で、室内の天井は低く、ひたすらにトレッドミルの上で反復運動をしていた。そんな代わり映えしない情景を思い出しているうちに山頂にたどり着き、そして痛みを堪えて最後の下りパートを走りつづける。すでに150km以上走っているから当然なんだけど、急斜面を下るたびに痛みが増す。

ひとり、もうひとり抜きロード区間にたどり着く。なんかこの展開のデジャヴュ感が強いのは、恐らくグレートレースのせいだろう。今まさに、自分はディランボウマンなのである。チャンピオンに例えるなんておこがましいけど、今日の主役は自分であり、そのためにこれまで準備してきたんだ。ここからゴールまではすぐのはずなのに永遠に感じる。映像でみたDBoを燃料に最後の力を振り絞る。

記録は22:28、総合9位。1年半、夢に見ていたUTMF2021の表彰台が実現した。

 

という理想的な2021年の思い出話は実現することなく、なんなら3月の段階で開催中止が決まったことで、走ることなく終了した。「お前には無理だよ」とか「身の丈にあっていない目標」なんて言葉は関係ない。目指すか、目指さないか。信じるか、疑うか。大事なことはそれだけ。このレース展開を思い描いて1年半、自分の可能性を一瞬も疑うことなくトレーニングを続けてきた。

はじまることすらなかったなんて結果は、冷ややかな誰かからすれば「無駄な時間だったね」であり、同じ目標を持つ仲間からは「来年頑張ろうよ!」かもしれない。でも2021年はいちどきり。2022年に同じことはしないし、同じ目標を立てることは二度とないかもしれない。チャンスは一度きりです、だから清いんです。生身ってのはそういうものなんだ。

そんな訳で、2021年は言葉で表現することが難しい年だった。大会という晴れの舞台で全力を出し切ることだけに夢中になった。そういう意味で、2019年秋から2021年3月までの1年半は人生の中でも特別な時間だった。大概のものが結果よりも過程に価値があるように、トレイルランニングにおいても本番より日々の積み重ねにこそ美学が集積する。

つまり本番があるかないかなんて重要じゃない。準備期間において"少なくとも最後まで歩かなかった"っていう自負さえあればそれで十分...... だと頭では思っていたけど心は案外素直で、鍛えられた身体とのギャップに耐えられず、もぬけの殻みたいになってしまった。

 

 

生活の再構築

想像以上の消失感があったのは夢の舞台に立てなかった無念さだけじゃないのはわかっていた。それは少なくない犠牲を払って準備をしてきたから。わかっちゃいるけど今やれない、って類の複雑な案件はトレーニングを理由に保留にし続けてきた自覚があった。特に、今後どこに住むかという我が家では永遠のテーマについて。子どもが小学生になる前には拠点を決めるべきとういリミットがいよいよ近づいていたからだ。

そして僕らは高尾に引っ越した。

JR中央線の始発駅(終着駅ともいう)であり、高尾山の麓。街を歩けばトレイルランニング仲間に高頻度で出くわす特殊な社会。犠牲に対する精算の意識もあって、勢いのまま大会中止の2ヶ月後には引っ越した。独り身なら思い切って北海道にUターンしただろうけど、家族個々の生活を維持しながら精一杯遠い場所にやってきた。自然に近い場所で生活をしたかったことと、都市の窮屈さに耐えられなくなったこと。窮屈というよりも退屈と言ったほうがしっくりくる。

もちろん、都心から1時間以上離れた場所に住むと、それなりに生活スタイルを軌道修正しなくちゃいけない。人生ではじめて車を買った。まさか、車を所有する日がくるなんて想像もしていなかった。仕事は年内で辞めることにした。

そこまでして高尾に引っ越したのは、トレーニングに明け暮れたいからじゃなく、ましてや仲間内でワイワイした木更津キャッツアイ的な世界観への憧れでもない。それは、自分の住む場所は自分で決めないと気がすまないっていう偏ったこだわりがそうさせた。生まれ育った場所が人間性潜在的な影響を与えているとすれば、北海道の寒くて暗い真冬の「下校時」がスタート地点になる。夕方5時には真っ暗で、見上げれば夜空と星、正面は吐く息が凍りついて広がり、足元は雪と氷が永遠に続く。田舎だから街灯もまばらで、もちろん外には誰もいない、たまに車を見かける程度の毎日。この景色の中、いつも一人で歩く。気温はマイナス10〜15度で、明日も明後日も変わることなく続く。ここでは人間が自然に適応するしかない。結果、少年は脳内カンバセーションを永遠に繰り返して、自問自答の先に「偏り」を獲得して「話す力」は失われる。

関東に生まれ育った人の季語が桜であるなら、北海道にとっては間違いなく雪だ。どこに住もうと、雪が降らなければそれは冬じゃない。もう10年以上、四季の欠落と季語の回復を求めて生きている。マーセル・セローの「極北」で、主人公のメイクピースが人を求めて故郷を離れて、最後は故郷を求めて旅をしたように、僕らが住んでいた場所の特殊性を認識するために外界に出て、そして元いた場所に引き戻されることを願うのかもしれない。思えば、「下校」も始点から終着という場所から場所への移動であり、日々繰り返させるミニマルな旅なのである。

トレイルランニングにこれだけ熱中する理由も競技性じゃなく、根本的には場所から場所への移動がテーマだからなのかもしれない。距離に対して、速度と思考がいい塩梅で持続できるから、僕はウルトラトレイルに夢中になる。トレイルランニングもある種の「下校」という訳だ。

故郷、季節、土地への愛情のつもりでいたものは、実は無意識の中で土地に対する執着心が醸成されていたようにも思う。少なくない犠牲の精算を理由に新しい土地を求めて、居住の代償として生活を再構築する。夢の終わりは漂いのはじまりとなった。

 

 

アウトアンドバック

たしかに、「平成は令和と併存する形で続いていた」ように、2020年のエピソードは2021年の漂いに影響を与えていた。2021年の決断はきっとそれ以前に、知らぬ間に決定されていて、2021年のエピソードはきっといつか訪れる未来の種になっているはずだ。昨年の、ある出来事を振り返る。

 

2020年8月19日

アウトアンドバックというアプローチを知る。出発点からある地点まで行き、そして同じ道を引き返す。いわゆるピストンってやつだ。トレーニングメソッドとしてのアウトアンドバックを超えてこの言葉に妙な引力があるのは、どことなく冒険心を喚起させられるからかもしれない。「行って・返る」という動作以上に「出て・戻る」という場所への関係性が強く感じるからだろうか。

2020年、夏。言葉の印象をそのままに僕は3つのピンを立てた。ひとつは高尾駅、高尾山域の玄関口。もうひとつは標高1531mの三頭山、奥多摩山域でありアウトアンドバックの折返し地点となる。最後のピンは陣馬山、ここは高尾山域の西端であり、ここから先が奥多摩山域となる。和田峠のゲートが関所のような役割となって、進めば三頭山に向かい、背面には高尾山域の知ったトレイルが動脈のように広がっている。

高尾駅を起点としたアウトアンドバックは距離にして85km、累積標高にして5000mD+となる。つまり、高尾 - 三頭山間の片道約43kmを往復する。このルートのタフなところは距離だけじゃない。3つめのピンとなる和田峠は文字通り関所のような存在感があって、ここを超えた瞬間に山の雰囲気が一気に変わる。ここから三頭山までは人里から離れているエリアを通るのでエスケープルートは少なく、茶屋がなければ、水場もほぼない。ハイカーも少なく、そのせいか鬱蒼とした空気が漂う。

和田峠から三頭山は距離にして片道20km、つまり往復で40kmを走らなければ途中で辞めるという選択肢すらない訳だ。これこそアウトアンドバック。大げさな表現をすれば、これは命綱を外したフリーソロなのである。僕は高尾山域というホームから出て、ワイルドサイドから生還しなくてはいけない。

これにはレースでは味わえない緊張感がある。消耗する体力、日が沈み刻々と暗くなる視界、獣の気配。往路として、和田峠からアウトした瞬間の意気込みに比べて、バックでは”生”の実感と、それ故の恐怖が漂っていた。薄暗いトレイルの向こう側に大きな猪が現れて、猿は木々を揺らして存在感を主張する。すべてが偶発的で、自然の一部として飲み込まれることの恐怖を知った。和田峠のゲートにたどり着いたときの安堵感は言葉にならず、生還そのものだった。

振り返ってみると、この日を境に価値基準の変化がはじまったように思う。2020年代を生きていくための背骨を得たというか、これからの5年・10年におけるささやかなコンセプトの種を拾ったような感覚だった。「自然はアンコントローラブルな存在である」そんなことわかってるよ、ってことでも言葉をなぞるのと身体に馴染むのは全く別物なのである。もはや、偶発性の先にしか感動とか、神秘的な瞬間ってないんじゃないか。もっとそっち側に近づきたい。

 

 

ベスト・オブ・決断

「右方向です、30メートル先右方向です」って指示されて曲がった先に猪がいるなんてことはないですよね。交差点を渡るとき、車に気をつけることはあっても猪はチェックリストに載っていない。猿との間合いを気にする必要はないし、暗くなれば街頭が照らしてくれる。

Google Mapsをひらけば首都圏に無数のピンがたてられて、目的地に行く前から余計な情報で過多になる。行って、答え合わせをして、また次を目指す。人口動態統計は都市化する未来図をはっきりと捉えている。30代の僕たちは職場と保育園に規定されて住む場所を決めて、70代になった僕たちは病院と施設に規定されて終える場所を選ぶ。「いまは便利な方が…」を合言葉に、トレース可能なグリッドに生活を落とし込む。

「遺伝子検査でアレルギー反応をみて、出自と家族構成から未来を予測して、行動を規定してく。そうやって”データの奴隷”になっていく。」ってことを言っていたのは落合陽一だったろうか。

 

2021年のなにかに”ベスト”というタグをつけるなら、それは”決断”なんだろう。これはいわゆる”良い決断”をしたっていう結果に対して付与しているわけじゃない。そんなことはどうでもいいんだ。決断したこと、そのものが態度表明なのである。

引っ越しという”決断”は規定されることへの抵抗なのである。言うても東京の西側だろ、なんて言葉には意味がない。トレイルランニングの順位に優劣がないように、個人の決断は個人の文脈なのである。これは隷属へのレジスタンスであり、偶発性へのベットであり、漂うことへの信頼なのである。移動時間が長い場所に住むことも、不便であることも、車を所有することも、計算機上では無駄であり、非合理的なことは目に見えている。でもそんなの関係ない。

地図はなぞるよりも作る方がクリエイティブであって、コーヒーは撮って上げるよりも淹れて飲む方が五感を刺激する。ランニングだって語るよりも、自重を感じるから言葉を獲得する。市井の民によるささやかなレジスタンスは、決断すること以上に実践することで未規定な未来に漂うことができる。

 

 

マイケル・ポーランはこう表現した。

料理するべきかしないかそれが問題だ。
もちろんそう簡単ではない。
料理の意味は人や時代により異なり、二者択一では計れない。
それでも料理の機会を増やすことを提案する。
日曜に一週間分を作るのもいい。
買ってばかりいた食品を自分で作るのも一興だ。
それでだけでも意思の表明となる。
その意思とは?
人々が料理をやめたこの世界で、すべてが専門化されるのに反対するのだ。
合理化の流れを止めよう。
あらゆる商業化の波に押し流されぬよう。
余暇を料理に使いその時間を楽しもう。
あらゆる時間を消費に費やさせようとする企業に独立を宣言するのだ。
料理は食物の単なる変換ではない。
現代社会では貴重となった人々の支え合いを体験できるツールだ。
効率性の観点では素人の料理は無駄が多いかもしれない。
だが美しい行為だ。
あなたの愛する人々にごちそうを作る時間は、自己犠牲に満ち、他者との関わりを得られ満足度が高いはず。

 

- Michael Pollan 『COOKED』-

 

メリークリスマス
ハッピーバースデートゥーミー
良いお年を

 

この記事は 2021 Advent Calendar 2021 24日目の記事として書かれました。昨日はtakawoさん、明日はrealfineloveさんです。お楽しみに。